撮るもの撮らされるもの
映像・写真には「撮るもの」と「撮らされるもの」がある。
前者は自分が撮りたいという意志を持って撮るもので、自我とのせめぎ合いになる。
後者は何かに導かれ、撮らされてしまうもので、無我の境地にある。何に導かれているのか、と問われれば、大いなるものとしか答えようがない。それは時に神であり、宇宙である。
そういった見えないものを全く信じなかった(そしてなぜか敬遠していた)自分が変わったのは、4年前に訪れた出羽三山だった。予備知識もなく、初めて訪れたご神域に、自らの霊性が目覚めるのをはっきりと感じていた。後で知ることになるが、出羽の三山を旅することは、古来から生まれ変わりの旅と言われていた。
それから自分は、神の計らいとしか思えないような経験をし、数々の映像や写真を「撮らされて」きた。偶然と縁によって導かれ、なぜ自分がそこにいるのかもわからず、ただ目の前に広がる風景に心震えながらシャッターを切った。その映像や写真の出来は言わずもがなであるが、どこか自分の作品と言い切れないものがある。
これを見ていると、自分が撮ったという思いはつゆほどもなく、この風景は誰が撮っても良かったのだ、という不思議な感覚が沸き起こってくる。たまたまその時その場所に、私はカメラを持って立たされていた。そこでシャッターを切ったという事実が、一枚の写真となり、こうして世界に誕生した。
しかし写真というのは偶然の産物なのであろうか…。
いや、写真というのは、必然の賜物なのである。
いつしかそんな想いを抱きながら、カメラを持つようになっていた。

2020年10月撮影
手漉き和紙写真